運の悪い日

【何もかもがうまくいかない日がある。一年に何回かある運の悪い日、何もかもが裏目に出てしまう日、それが昨日。

昨日は、仕事先の大学の健康診断の日。一限目の授業に間に合わそうと、3つ早い新快速に乗ってでかけた。
それを踏まえて次をどうぞ。

・一限目は9時30分から。私は、8時45分には健康診断開始。他の先生方も、一限開始の時間とにらめっこ。そんな中、視力検査のところで順番抜かしをされた!その一つがたたり、次々と、待たされたり、タイミング悪かったり。もちろん、授業遅れる。

・帰りの電車。新快速遅れとの情報あり。快速にのることにする。あ、あそこ空いてる、と駆け寄った座席は他の人のものに。立つ。この人、降りそうな気配、とそう思い、次の停車駅に備える。が、はずれ。それを何駅か繰り返した末、最後の停車駅に望みをかける。座れた。しかし、人と競って座った感あり、後味悪し。

・駅前のスーパー。今日は1000円ごとにスタンプくれる日で、しかも2倍の日。それを思い出し、いざ買い物に。しかし、買い物すんで、そのスタンプカード探すものの、見あたらず、無念。

・駅から電動自転車で15分余り。もうすぐ、家、という付近。遠くに末息子が見えるではないか。おう、部活帰りのりりしい姿よ。すぐに追いついてきて、私の自転車の荷台、そこには食料品を詰めた段ボール、その上に重い学生鞄を置いた。そして、あろうことか、1.2リットルの水筒も。「水筒落ちるからやめなさい。」「いや、落ちんように引っかけてあるから、大丈夫」「もちなさい」走りながら、言う。玄関前カーブ、ガッシャーン水筒落ち、大破。

・ため息と怒りで玄関に。
「あ、おかあさん、あんな、あ、なんや、ここにあったんや。」。みると、玄関に弁当。はあ?!「なんで、持って行かなかったの?お母さん、朝、鞄の上に置いて行ったのに!」「いや、変やなあ。入れてたと思ったのに、学校に行ったらなかった。」…
「お腹すいたでしょう?」「それが、調理実習あってな、ラッキー!」「もう、夕飯は、それを食べなさい!」

私は、いつもより30分早く出るため、大慌てで大忙しで弁当をつくった。それを末息子は玄関に忘れて登校していたのだ。はあ。

・食事室に行くと、ベッドカバーやらシーツやらの山。おととい修学旅行から帰った娘が1日家にいて、部屋の掃除をしたというのだ。テレビの前には、まだ、旅行帰りの学生鞄と仕分けしてない土産物、袋散乱状態。こっちがさきやろ!

・炊飯器を見ると、保温中。空っぽになった釜にご飯粒カパカパ。最後だったら水につけろ!

と、ここまで書いてみると、それほど、とりたてて運が悪いわけでもないよなあと思えてきた。ただ、私の機嫌が悪いだけなんだ、と、おかしく、思えてきた。運が悪いのは、周りかもしれない。お母さんに気をつけろの日かもしれない。】

だが、やはり、運が悪かった。
実は、【   】の部分、夕べ、書いたのでありました。ところが、久しぶりに投稿したものだから、操作ミス。投稿したと思ったら、保存もしないまま、消えていたという始末。最悪。もう、やめようかと思ったが、これこそ、運の悪い日だったと、ほとほと思うので、昨日書いた内容を思い出しながら書いたという、今日でした。
今日は血液型A型の人は運がいいらしい…

コメント (4)

臨床哲学者(りんてつ):

お久しぶりです。

さて、ヒトの人生にはおおよそ運と不運は同じ数だけちらばっています。
つまり「通常の期待値より高い」事象と「通常の期待値より低い」事象とは、同じ1/2の確率で起こる、と考えられます。
ルーレットにおいて、黒にだけ欠け続けた場合、十分な回数だけやり続けるなら、儲けもすりもしない、ということですね(最もどっちにころんでも親の勝ち、という「0」というポッドがあるのでイカサマなしでも胴元が儲かるようになっていますが)。
ところが、このような運・不運は、ランダムに生起します。運がよければ、その次には必ず不運にめぐりあう、ということになりません。本当のランダムというものは、局地的にみれば、片方が固まっておこる、という可能性をまったく排除しないところにあります。
打率3.33とは、イチローに三打席まわったら、必ず1本ヒットを打つことを意味しません。
このうち、「ウチは日本一不幸な女の子やねん(じゃりン子チエ)。」となるには、大きくわけて二つの要因があります。
①その人の記憶に。齟齬をきたした経験のほうが残りやすく、スムースに運んだことを忘れやすいきらいがあること。そこでヒトは、運より不運のほうを記憶にとどめやすい。
②同じ物事をみても、それをどういう枠組みでみるか、によって観察者にとっての意味が異なってくる(一種の観察の理論負荷性)。つまり、半分あるウイスキーのボトルをみて、「わあ、まだ半分ある」と見るか、「ああ、もう、半分しかない。」とみるか。
おそらく、自己否定的な構えのヒト、あるいはDepressiveな状態では、これらの点において、「不運」をより多く摂取するのでしょう。

バーナード・ショーに、あるレディが言いました。
「先生、金曜日に結婚したら幸せになれるって、お信じになります?。」
ショー「いや、信じないね。」
レディ「あら、どうしてですの?。」
ショー「金曜だけが例外とは思わないからね。」

これはこれで一種の決定論・宿命論ですな。
なにも、「物事のいい面をみろ。」などと、苦しむ患者さんに言うつもりはありませんが、事物というものの観察、経験、ということについては常に自分を振り返っていたいものだ、と思っています。

後藤先生、一日お疲れ様でした!
大変な一日の終わりに、ああ、機嫌が悪かった、「お母さんに気をつけろの日」って
反省されるあたり、ほんと、後藤先生の穏やかな優しさ!!!

りんてつさんのコメントもすごい!!!
認知の修正、認知行動療法などは、この辺りの微妙な空気を調整しているような気が。
子どもの欝やペシミストに関しても書いてみたいのだけれど、おいおいに

「人間万事塞翁が馬」の故事が好きです(^ ^;

ちなみに バーナード・ショーのもう一つの有名な挿話
あるハリウッド女優に
「先生、私と結婚しません?
あなたの頭脳と私の美貌を受け継いだら、どんなに素晴らしい子どもが生まれることでしょう」
といわれた彼、
即座に
「あなたの頭脳と私の容姿を受け継いだとすれば、最悪ですな」と切り替えしたとか

もっともっと「運・不運 認知の歪み」のテーマに絡みたいのだけれど、

また明日にでも(^-^)/~

後藤浩子:

りんてつさん、お見事!的確に論じてもらって、よかったです。
おかざき先生にもやさしくフォローしていただいて、よかったです。
こんなふうに、誌上カウンセリング、ありがたいなあ。

少し、自己肯定感が高まってきたら、私も挿話を思い出しました。

バーナード・ショーではなく、末息子ゴトー・ショーの名(迷)言。

旦那の仕事の関係でオランダに1ヶ月行ったときのこと。

運河で鴨にえさをやっていた子供ら。身を乗り出したときに、あろう事か、
2歳の末息子が運河に落ちてしまった。

10メートルほど離れていた私が、走りながら、パスポートの入った
ウエストポーチをはずそうとしてはずせないまま、飛び込んで助けた。

その後に2歳のその息子が言った。

「ぼく、"運河"に落ちて、"運が"悪かった。」

息子の人生初めてのだじゃれを聞いた瞬間だった。

ゴトー・ショー君に座布団10枚!
(^-^)/~

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