りんてつさんから マニュアルの時代

本ブログでおなじみの論客
類まれな知性と温かいハート、ユーモアたっぶりのりんてつさんから 数編の文章が届きました。
少しずつアップさせていただきますので、また皆様、感想など よろしく(^-^)/~

注 文字量が多かったので、読みやすいように一部改行スペースを勝手につくりました。
>りんてつさん、もし戻したほうがよければ、ご連絡くださいね(^-^)/~


マニュアルの時代


本屋の店頭にとある教育雑誌が積んであって、それを手にとったら「お父さんの家庭力」とかいう記事がのっていた。
いわく、家族相手にプレゼンテーションする父親、週末は大学時代の仲間と子連れ登山する父親、娘の部活をビデオ指導する経営のプロ、昔話を上手に話す父親・・・等々である。もちろん店頭で爆笑し、周囲の顰蹙を買った。つまり、夜な夜なエラそうな顔をして何かを息子たちに語り、提示しつつ、休みには休みで山だの川だのに連れ出し、へたな飯ごうメシでも炊いてみせ、子供の部活にはしたり顔でビデオ指導する・・・そういう父親にはいい子が育つそうである。

子供にとって「良い親」とは。子供にとって「良い家庭」とは。「良いクラス」「良い友達のつくりかた」「良い塾の選び方」に「良い進学」「良い本」「良い音楽」「良い観劇」に「良い食べ物」。・・・おそらく探せば「子供に良い息のしかた」までどこかに書いてあるに違いない。昨今の親子は呼吸のしかたまで誰かの書いたマニュアルにしたがって生き延びなければならないのだ。ご苦労なことである。これら「子育てマニュアル」全盛の社会に、いくつかの次元(ディメンジョン)で反論を試みよう。

<第1:検証性として>このように市販されるマニュアルは、いわば個々のCaseを挙げて、それをもとに一般的命題~「話が上手な父親のところには良い子が育つ」、など~を述べているに過ぎない。それは「成功例」を挙げているのみであって、いわゆる科学的根拠などはない。それは、健康食品か民間療法と同じで、はっきりと科学的に検証されているものではない。「私はコレで、10kg痩せました」という広告と同レベルである。本当にその命題を検証するためには、子供たちを無作為にふたつのグループに分け、それぞれを「話のうまい」父親群と「話はそれほどうまくない」父親群とで、相互に独立にかつ他の一切の条件(母親のでき、家庭生活、勉強時間、栄養状態、教師の質、出合う本やメディア、経済状態、そのほか一切)を同じとして、一定期間育ててみて、各々の群の子供が「良い」かそうでないかを客観化できる尺度で持って評価してみなければならない。このような「真実にせまるための」科学論が、子育てにとってはいかにばかげているかは、論議するまでもないだろう。ならば、せめてそういうものによってすら評価もされていないようなマニュアルに、「効果がある」、などといったいどうして信じられるのか。

<第2:方法論として>よしんば、ここにある「やり方(マニュアル)」が、確かに明らかに誰か良い子を育てるのに成功したとしよう。しかしそれがほかならぬわが子にも当てはまると、どうしてそう素直に信じ込めるのであろうか。枚挙的帰納法という近代科学の基本となる発想は、もちろん古代からあったが、これを定式化したのはフランシス・ベーコンである。その考え方とは、できるだけ明らかな形式で経験を重ね、充分否定的なことを試みた上に構成される一般命題は真実とみなしうる、というものだ。近代科学、ひいてはこのマニュアルというものの存在の裏づけになっているのはまさにこの経験論的帰納法なのであり、前段で述べたばかばかしい検証方法というものも、実はこの発想による。しかし・・・いまや科学の世界でも、枚挙的帰納法だけで世界の真実は知れない、という考えのほうが一般的である(ゲーデル・ハイゼンベルグ・チューリングなどを参照)。つまり・・・たとえ100羽のカラスの観察方法が正しく「黒」という回答を持っていたとしても(第1の点を満足させていたとしても)、101羽めのカラスもまた黒い、という証拠にはならないのである。あなたの子供は白いカラスという、まことに個性的な子供かもしれないのだ。

<第3:言語意味論的に>あるいは、そのマニュアル(子育て方法)が、上記1、2をクリアし、本当にこの世の真実を伝えていたと仮定しよう。その本を読ませれば、そのように語りかければ、そのような絵や歌を聞かせれば、間違いなく「良い子」になる、というようなパーフェクトなマニュアルが存在するとしよう。しかし、それでも、である。それでは「それ」が「良い」子である、と、いったいどこの誰がどうやって評価するのか?。親にとって?、教師にとって?、国家にとって?。そう、かつての国民学校や兵舎は実にすぐれたマニュアルをもっており、みなを「良き天皇陛下の新兵」に育て上げた。そして、多くの若者が従容として爆弾を抱き敵艦船に自爆攻撃を行ったのである。ああ、そういえば、最近のとある宗教の原理主義者たちも、同じようにその宗派にとって良い子を育成するのに大成功しているようで、自爆テロがあとを絶たぬ。・・・・そんなのと子育てとを一緒にするな、といわれるか。では、そのように育てるのと世間的・教育産業的「良い子」を育てようとすることと、いったいどこがどう違っているのか説明して欲しいものだ。

<第4:実存的に>そうだ、この世に一般的な「良い子」などというものなど存在しないし、一般的に「良い方法」など在りはしないのだ。おそらくここに存在するのは「幸福に生きている子」・「人」かどうか、という内的基準のみである。そんなことは実は親や教師の、あるいは赤の他人の知ったことではない、といっても過言ではない。勉強をサボってみるマンガのあの極上の快感はどうか。仕事が残っているのについ座り込んでみてしまう映画、明日の仕事はほっといて、今眼の前にあるご馳走に酔いしれるこの幸福。どうしても見てみたかった建物・自然などを眼前にしたときの満足感・・・。この圧倒的な幸福感を前に、誰かが「それはお金の無駄遣い、もっと賢い生き方をしなさい、ホラ、このマニュアルにしたがって・・・」などといおうものなら、棒をもってきてゴーンっと・・・思うのは私だけか?。自分にとって、あるいは自分と親、自分と子たちを含めた「我々」が「良い」状態であるかどうかなど、他人に決められる筋合いのものではない。我が子が良い子かどうか、など、なぜ、こんな一編の雑誌の記者や教育評論家、政治家、役人などに決めてもらう必要があるのか。


子供というものは、はかりしれない「潜在力の塊」(L.M.モンゴリー)である。その人生も幸福も無限の可能性をもっている。マニュアルに従うというのは、それを予め少数の限られた経験によって打ち出された鋳型にはめ込もうとすることに他ならない。したがって、「良い子」に育てるために、唯一可能で有効な「マニュアル」とは、ただ1つである。すなわち・・・・・・「ありとあらゆる手引き取り説を捨てよ」!!。

当予防医学心理学研究室(兵庫県神戸市)は、
個人カウンセリングやメンタルヘルスセミナー講師:
企業のメンタルヘルスケア、特定保健指導、メタボ撃退 
やせる心理学担当の臨床心理士 
笑顔の絶えない癒し系心理士 岡嵜順子と
warm heart 乳幼児から高齢者まで対応の
音楽療法士後藤浩子が活動しております。

おかざきじゅんこ、岡嵜順子、岡﨑順子 後藤浩子 
okazaki junko goto hiroko

コメント (4)

早々に私のところへ賛同のメールが届きました(^-^)

「子育てマニュアルを捨てろ!」
に対して 「同感です。」とのコメントをいただきました。
「マニュアルに頼らなければいけないほど、育児って不安!
でもマニュアル通りに育てられる子どもって、たまらないだろうな....」って

コメントありがとうございました。
いただいたメールは素晴らしくユーモアたっぷりで、
大受け、大笑いしてしまいました。

T先生、こちらにもコメントをつけていただけるとありがたいです。
どうぞよろしく(^-^)/~

後藤浩子:

うまくいっているときには、(うまくいくとは、いったいどういうことを言うのか、そこから論議がおきそうですが)、マニュアルは全然必要ないんですよね。でも、子どもが人に迷惑をかけたり、悪いことしたり、うそついたり、困ったことがおきたりすると、ちがってくるんです。

私の場合は、おかざき先生の「それでいいんだよ。」「大変だったね。」「良かったですね。」「いいんじゃないい」などのことばが、必要になってくるんです。そのことばを聞くと安心できるのです。
自分の中のマニュアルが肯定されると、安心するっていうのかなあ。
K.Iさんもそうじゃないですか?

“T先生”が私の思っているT先生だとしたら…。昔、子どもを(子育てを)ほめられたことがあって、それを思い出しました。

長男が小3のとき、担任の先生から、封筒で手紙をもらいもらったのです。学校で書いている作文を学級新聞に載せているが、これも載せていいか許可を求められたのです。
それは、長男が、「今一番苦労しているのは、自動販売機の下のお金をとることです。ともだちのSくんととります。とれるときは200円ぐらい、とれないときは10円ぐらいです。とても苦労します。」というような文章を書いていたからです。

その時、私は、担任の先生に、「どうぞ載せてください。そして、クラスで、話し合ってください。」と答えました。担任の先生は、そうして下さって、そして、「困ったことに…話し合いしていたら、最後に、このことはいいことか悪いことかという多数決をとることになって、そして、あろうことか、皆の意見は、『悪くない』という結果となってしまった。でも、かっこわるいぞ、としめくくりました。」と。

その話をT先生にしたところ、「いいなあ。後藤さんのところの子どもは。生活力、生きる力があって。」と、ほめられました。

その時、私も、ちょっといい話だとは思っていたのですが、でも、少しはずかしい気持ちもどこかにあったので、T先生のことばにすごくうれしくなった思いがあります。

子育てに、「そうそう。」「それでいいよ。」と、言われること、とても大事だなあと思った次第です。

ちょっと、はずれたかなあ。

T先生、ありがとうございました。それから、どうぞお元気で。

りんてつさんとT先生のやりとり、見てみたいです。

臨床哲学者(りんてつ):

どうしても我慢できなかったので、
いらんこといい、ということはわかっていて。

うまくいかないときにこそ、自分とその子弟の「個」を想い、想像し、創造し、いま、自分と、この個別の、宇宙に只ひとりの、特別で入れ替え不可能な、かけがえのない我が子と「私」について、凡百の「手引き」を離れ、地球数十億に一回こっきりの「私」と「わが子」との
「めぐりあい」について考えをいたすときではないでしょうか。それこそ。
一番「マニュアル」も「他人の意見・励まし・言葉」を廃して、自分とその相手とで「勝負」すべきではないのでしょうか。


「とれるときは200円ぐらい、とれないときは10円ぐらいです」

どうか正当で社会的に認定されている労働において、200円、かせぐことを考えてみてほしい。
Working Poorが問題になっているこの時代。
200円が10円でも、正当な労働の報酬として、得ることの意味を考えていただきたい。

窃盗は窃盗であり、非合法な搾取である。
生きる力があるとかないとかの問題でないのでは?。

もし自分の子弟がこのような、世界の一隅での最低最悪のみじめな姿をさらすなら、即・勘当、縁切り、除籍ですな。もちろん息子にはあらかじめ宣言してあります。犯罪者となった貴様をかばうほどおまえの両親は「優しくない」と。

盗みは盗み以外の何ものでもないでしょう。
生きる力が旺盛?。何じゃソリャ!!!。

かつて。戦後「ヤミ市」をとりしましつつ餓死した検察官がいたというのは有名な話です。
しかし、現代のハイティーンどもがそれほど飢えているとは思えませんな。
新宿地下街の浮浪児童たち。くすねて、盗んで、だまして、あやして、裏でほくそ笑みつつ、生き延びるために戦った子どもたちは確かにいた。

しかし、・・・
現代日本の、一般的な家庭の児童が、他人のものをくすねるのは、
それは・・・最低の堕落ではないか。
それに対し。
現在の公教育・評論家などは語る言葉をもたないというのか。

私は、わが息子には、盗まないと生きられないなら潔く死ね、と。
いや、この手で殺してやるでしょう。
いや、ちょっとグレるんなら300円ほどやるから出て行け、なんかいってますがね。

この手の「ゆるい」感覚は私の中では許容範囲ではありません。

ほめりゃいい、ってもんじゃないっしょ。

マニュアルがない。
それはなんでもかんでもあり、ってことじゃない。
マニュアルなんてなくたって。
自分の正義をおしつけりゃいい。へたな妥協。へたな迎合は、子どもの顰蹙を買うだけだ。

ただ、自分の「正義」を常に省察する謙虚さを喪わないことだと思いますがね。

いずれにせよ「泥棒」を「生活力旺盛」などというおべんちゃらは・・・ハハ、おべんちゃらに過ぎないというのが我が信念です。


後藤浩子:

りんてつさんへ

正論に撃沈です。

剣道で言うなら、2本負け、あるいは、場外?反則負け。
ありがとうございました。

元気出たら、また書きますね。
でも、「時効」、その時の過程あって今がある…あ、また、何か言われそう。

ちょっとエネルギーためますね。

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