ホッカイロに足を向けてはいけない

15年の月日が過ぎた。
震災で大きな被害を受けられた方々にお見舞い申し上げます。

神戸 阪神間でカウンセリングをしていると
外せないものがある。

生年月日。そして住居地

「あの日、あなたはどこにいましたか?」

今の中学3年生は、震災時 10ヶ月~新生児
あるいは震災時 母のお腹の中にいた子どもたち

ある母との雑談から、許可をいただき、記載する
常々、私は、この母に尊敬の念を抱いていたのだが、
以下の話をきき、その思いを新たにした


「生年月日 1995年1月15日!」
「この子、死にかけたんですね。出生時、早産で2500g無かったんです。
それで保育箱に入れられていて」

「1月17日未明、大きく揺れたのだけれど、あそこまでの被害とは思わず
疲れた身体を休めていたら、
部屋に飛び込んできた看護婦さんに、
 「何しているの。ほかのお母さんは、みんな新生児室へ集まっていますよ』
慌てて、赤ちゃんの側へ出向くと

電気もガスも止まっていて

出産後のお母さんと赤ちゃんは一カ所に集められていたのだけれど、
一番 小さかったうちの子だけが、どんどん身体が冷たくなっていって

『お母さん、さすってやって下さい』って言われて
必死にさすっても、まるで石を抱いているようで、

笑えたのは、心配した夫たちが次々と病院へ駆け込んできたときに
必ず、妻の心配よりも、「赤ん坊は大丈夫か?」と聞いたこと

どのお父さんも、自分の奥さんより、赤ん坊のことが心配だったんですね。

でも、大丈夫じゃなかったのは、うちの赤ん坊だけだったんですけれどもね。


明るくなり始めた頃から、病院には次々と怪我をした人が担ぎ込まれ

そうなると 新生児とかの雰囲気ではなくなり、

産婦人科の主治医は、
暖めさえ出来れば、この子の命はつなげる
いざとなったら、病院内の唯一の自家発電装置をこの子のために使ってあげるから、
と約束してくれたけれど

それは無理だろうと 感じていた。
あとで、聞いたことだけれど、看護師さんたちも、「ああ、この子はもう駄目だろう。
かわいそうに」と思っていたとのこと。

そのとき、主治医が看護師に  
「病院中のホッカイロを集めろ。それで、お母さんとこの子の毛布に入れてやれ」
命令一過 病院中からホッカイロが続々と届き始め、
チアノーゼを示し始めていた 息子の肌が少しだけ暖まったけれど、
それでも、お乳に吸い付く力もなく

どうしよう、どうしようと思っていたところ

2日後に 実家へ電気が通じたとの知らせ

主治医が この子は暖めさえすれば生き延びれる
衛生状態なんて問題じゃない
とにかく 実家に帰り、エアコンをガンガンに温度をあげなさい」と言われ、
通常は車で15分ほどの距離を 2時間ほど掛けて戻り

到着したとたん、
「なんで、水も出ない、半壊の壊れかけたグチャグチャの家へ戻ってきた」という
両親を尻目に、必死でエアコンを最高目盛に上げ、

30分もしないうちに、子どもの肌に赤味が差してきたとき、
「ああ、この子を助けることができた」って
本当にホッとしたのを覚えています。

『どこか、神戸市外へ 避難しようとは思わなかったのですか?』


いいえ、
私、この主治医についていこうと思ったのです。

『?』

病院内で、産婦さんばかり集まっていたとき、
緊急で産気づいた人が やってきたのです。
手術の設備や器具が破損し、まっとうなお産ができないので、
婦長さんが、断ろうとしたところ、
その主治医が
「受け入れろ。 今、神戸市内はどこも同じ状況だ。
困って、頼ってきて下さったんだ。
昔は、器具がなくても、お湯さえ沸かせればお産はできたんだ。
今すぐ用意をしろ」と 命令したのを聞いたとき、

この先生は本物だ、 この人になら ついていけると感じたんです。

だから この人の指示に従おうと思いました。

この子が無事に大きくなって、
誕生日ごとに、私、この子に言い聞かせるんです。
「あんたはね、みんなが届けてくれたホッカイロで生き延びられたんだよ。
ホッカイロに足を向けてはいけない」


胸が熱くなった。
同時に、このお母さん以外のたくさんの産婦さん、妊婦さんのことも思った。
あのとき、多くの父や母が 必死で子どもを守ったのだ。

災害は 人を傷つける
でも同時に、悲しみや痛みを通し、心を耕し、人を優しくする。

心理士として、そして一人の被災者として、
自分のあり方を問う、
今日は震災から15年